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第5章

なぜそこに? ― 皮膚症状の地図


第3章の動物テスト(もし自分を動物にたとえるなら…)で述べたように、内なる自分の声を聞くには、多くの場合、感情と意味がこめられた象徴や対象を仲立ちにするのが最もよい(シカはたんに用心深い動物であるだけでなく、臆病であることの生きた見本であり、臆病の象徴となる)。このような象徴的表現は、芸術や詩や日常の比喩表現の中でごく普通に使われている。

私たちは身体とともに生き、身体を通して生きている。身体に関連した表現の中に、ありとあらゆる経験を象徴する言葉が見られる。「リップ・サービス」は口先のほめ言葉で、「あなたしか目に入らない」は没頭した状態を指している。知性や感情に訴えられても、自分の立場を譲らずに毅然としている人は「踏みとどまっている」のである。このように、身体の各部位にはその機能によって独特の抽象的な意味がある。身体を使った象徴的表現は、日常生活にすっかり溶け込んでいる。私たちが「手」で物を操作したり調節したりするのと同じように、自分自身や他人、仕事、人生も「扱う」のであって、そこには詩で韻を踏むような論理が存在する。

内なる自分は、身体的症状を通して欲求、望み、そして怖れを表現する。迷ってくよくよしている時には、症状が何を示しているかが役に立つ。性器ヘルペスを発疹している女性にとっては、「しようか、やめようか」というセックスの葛藤に対して、症状がまさしく答えを出しているように。 しかしまた、症状は欲求やかかえている問題を象徴的に表現するものかもしれない。初期の精神医学の文献は、器質的な異常はないのに視力障害や難聴、麻痺すら起こす男女の、転換ヒステリーの症例であふれているではないか。目であれ耳であれ、その他どこであれ、完璧に機能していたものが、情緒的な葛藤を極端なボディランゲージで表現するために、機能しなくなってしまう。症状が起こっているその場所は、文章でいえば名詞にあたるメッセージの核心部分である。思いがけず親の不倫を見てしまった後に目が不自由になった人は、自分が目にした光景のショックとぞっとする思いの表現として、耳ではなく目に支障を来すのだろう。

似たような象徴的表現には、それほど鮮明ではないものもあるかもしれない。背中上部の疼痛が、たとえば世界をひとりで「背負って」おり、休息が必要な人の感覚を表現しているかもしれない。皮膚疾患が現れたり悪化したりする際に選ばれる場所にも、同じような論理が見られるだろう。「なぜそこに?」という問いの答が、自分の皮膚がなんとか伝えようと苦しんでいるメッセージを聞くための重要な鍵となることはめずらしくない。

時にこの問いかけは、的はずれにも思える。接触皮膚炎が腕に出ているのは、毒性のある化学物質に触れたためである。足の皮膚が荒れているのは、真菌または刺激物にとってそこが理想的な温度と湿気だったためである。ニキビのほんとんどが顔や背中に見られるように、特定の皮膚疾患には決まった部位に起こるものもある。それでもなお「なぜそこに?」と問うことは、症状がそこに現れてひどくなり、消えないだけの力を与えているものは何なのかを知るきっかけになるだろう。

「なぜそこに?」と問う時にはおそらく、創造的に連想できるようにオープンな気持ちで問うことが必要である。あなたの湿疹は、どうして目のまわりを選んだのか? もし蕁麻疹に悩まされるのが足ではなく腕だったなら、自分にとってどんな違いがあるだろうか? 皮膚科的な事件が起こった身体の犯行現場は、暗喩(メタファー)を使って、その犯行が感情的な動機に基づくことを指し示しているのかもしれない。

私のある患者は、不快でどうしようもなく腕を掻きたい衝動にかられていた。夜間の苦しみ(医学用語で言えば掻破)は、腫れて出血した皮膚となって残っていた。治療で明らかになったのは、彼女の症状のほとんどに、一見娘を愛しているように見えるものの、実際は縛りつけて操ろうとする母親に対する気持ちが絡んでいることだった。マギーはたんに母親から受けるコントロールへの怒りを表現できなかっただけでなく、結局のところ自分が怒っているという事実に猛烈な罪悪感をもっていた。

自分への攻撃の標的になったのが、彼女の腕だったのは偶然ではない。腕と言うものは、愛情と同じように攻撃の古典的な道具なのである。怒って母親を打ちのめすことができず、彼女は打ちのめすために使ったであろう部位を攻撃した。彼女は腕を掻くことで怒りを暗喩的に表現し、また同時に彼女はそうしている自分自身を罰していたのである。

マギーの皮膚について「暗喩的」と述べたが、この言葉そのものが表していたことに注目しよう。暗喩(メタファー)はふつう比喩を意味し、複雑な感情を具体的な形で伝えるために詩人たちが使うものとされている。シェークスピアの劇には、「恩知らずの子なるは、蛇の牙より鋭いぞ」との一節がある。これはどんな理屈による説明にもまして、娘の裏切りに対するリア王の引き裂かれる思いを、聞く者に呼び起こすせりふである。 マギーの内なる自分はおそらく感情の言葉で、複雑かつ訴える力をもった暗喩を通して、詩人のようにこう語っていたのだろう。「私は攻撃しないでいるために攻撃し、攻撃を考えている自分さえも罰しているのよ」と。身体症状と感情の関連を調べるのに「なぜそこに?」と問う時は、要点をはっきりさせるために、暗喩が先で事実がそれに続くのか、それとも事実の後に暗喩がくるのか、この2つの視点を明確にしておこう。

暗喩が先で事実がそれに続く場合、症状が現れた場所そのものに意味が含まれている。ヒステリーの視覚障害のように、症状が他のどこかに現れたら意味をなさない。感情と皮膚を研究する分野を開拓した皮膚科医のオベルマイヤー、ウィトカウアーそしてエジェルらは、嫌悪感をもつ求婚者に意思に反してキスされた、ある若い女性の例を述べている。翌日に、その女性は口の周りに炎症を起こした。これは皮膚の言葉による、彼女がキスをどう感じたかの表現なのだ。

彼らは一本の指を荒らした、別の患者について報告している。不倫への罪悪感に悩まされた後で、彼女はその指でセックスの時に戯れていたのだ。皮膚の苦痛は、罪の意識が身体に現れたものである。悪事に関わっていない別の部位に皮膚荒れが起きたとしても、症状が出すメッセージを読み取ることはできなかっただろう。

このようなケースでは、身体の部位と実際に起こったこととに分かりやすい関連があって、症状がその後に現れている。暗喩が先で事実がそれに続く例には、直接的ではない関連から生じる場合もあるかもしれない。同じ著者は、母親の死の直後にへその上の皮膚が荒れた男性の例を述べている。へそは誕生の時に、母親とのつながりが断ち切られた部分である。ここに現れた症状によって、この男性は現在味わっている喪失感を暗喩的に表現したのである。

接触皮膚炎のように、物理的な理由がある部位に皮膚疾患が見られたなら「なぜそこに?」と問いかけたところで、心理的背景は明らかにはならないだろう。しかしながら、特に症状がひどくて長引いているなら、そこに働いている感情の影響を理解するのに役立つかもしれない。症状がはっきり現れてから、暗喩を含んでいくこともあり得るのだ。症状の持続は、罹患部位の意味を強めていく。

事実の後にくる暗喩の例は、ヘルペス感染症の場合に明らかである。生物学的にみて口唇ヘルペスと性器ヘルペスは同類である。電子顕微鏡で観察すると、似たもの同士のウイルスが原因になっているのが分かる。実際に性器ヘルペスの20パーセントは、通常は口唇ヘルペスを引き起こすウイルスによるものだ。とは言え、心理学的にはその二つはかなり異なった疾患である。口唇ヘルペスは、後々の情緒的な動揺の元凶になり始めるまでの間は、一般には不愉快なできものとして片付けられる。

ヘルペスに感染したのが口唇か性器か、それによる心理学的な要因については、だれも議論しようとはしないだろう。これは要するに、人目にさらされると言う話である。感染は通常、身体の開口部に発症または再発する。二種類のヘルペス感染症は、人それぞれに相当違った形の影響を及ぼす。と言うのも、人によって口唇や性器にかなり違った意味づけをするためである。性器ヘルペスに伴うひどい苦痛は、疾病それ自体と、性器周辺に対して象徴的に表される情愛に関する不安、罪悪感そして困惑といった感覚との間の相互作用から生じる。

「なぜそこに」を理解しても、性器ヘルペスを癒すことにはならないかもしれない。しかし複雑な感情と「その部分」とのつながりを理解することは、おそらくヘルペスウイルスの働きによって繰り返し示されている、感情面の問題を知るうえで役に立つ。この気づきは、何人かの患者たちに度重なる再発を終わりにさせたのだ。

事実より先か後かという区別は、いつも明瞭だったり重要だったりするわけではない。しかし「なぜそこに?」という問いに答えることは、ときに症状の心理的な背景を知るために不可欠な手がかりをもたらすこともあれば、それまでの検討で寄せ集め続けていた有益な手がかりが一つ増えることになるかもしれない。もしあなたの皮膚炎が一つかいくつかの部位に集中しているなら、きっと疑問に思ったことがすでにあるだろうし、それは充分に問う価値のある質問である。

「なぜそこに?」に答えるのは、苦痛な部位が自分にとってどういう意味があるのかを自問することである。私たちは共通した方法で身体を使うので、連想を分かち合い、部位に共通した意味を与える。話し、キスし、食事するとき誰もが口を使う。だから口のまわりの肌の荒れは、コミュニケーションあるいは情愛にまつわる葛藤を示しているかもしれない。しかしながら、人の暮らしはそれぞれに異なっているし、また私たちは個人的で普遍的ではない連想を発展させるものである。腕の荒れが意味するものは、私とあなたでは同じではない。その人独特の暮らしぶりの細かな部分は、身体に対して独特の象徴的意義をもたせるだろう。怒った親に何度も平手打ちをくらわされた人にとっては、口のまわりの皮膚の荒れに特別な意味があるはずである。

「なぜそこに?」に答えることは、暗号解読表の類を使って身体の部分が意味するものを感情へと訳すことではない。自分の経験やそれにともなう感覚、そして苦痛がある部位から連想されるものについて、あれこれ考えてみることである。身体が自分に意味していることと同様に、身体を実際にどうに使っているのか具体的に検討しよう。手にしろ性器にしろ、あるいは他のどこにしても、症状がはびこっている領域を考えた時、どんな言外の意味や連想が思い浮かぶかに関心を向けることだ。自分の暮らしぶりと症状がつくる脈絡の中に、身体を置いて考えることである。

たとえば、マギーは内気で孤独な子ども時代を送った。彼女にしてみたら泣くのが当たり前のことでも、厳格な道徳家だった両親は、弱味を見せることとして涙するのを見下していた。いま彼女は仕事で、重度の知的障害があって情緒的にも落ち着きがない、深刻な問題をかかえた子どもたちの相手をしている。

彼女が私の所にやって来たのは、かかりつけの皮膚科医に診てもらっても、なかなか目の周囲の皮膚炎が治らないためだった。治療の過程で、彼女が子どもたちの悲しみに共感して、自らの悲しみとしていることが明らかになった。子どもたちが苦しんでいる姿の中に、彼女は自分が小さい頃の痛みを見ていた。それは誰にとっても涙を流すのに充分な状況だったが、マギー自身の涙はいまだに両親の禁止令によって抑えられていた。彼女の悲しみは、涙が流れる場所の皮膚の荒れとなって象徴的に表現されていた。皮膚の荒れの下地にある涙の抑圧を私たちが探ってゆくにつれ、彼女は自分の悲しみの感覚に直接向き合うことができるようになった。そして本物の涙を流して悲しむことができるようになると、皮膚の荒れはなくなった。

もう一度強調しておきたい。こういう身体が象徴する個人的な内容は、また別の人にとっては、同じ炎症であっても完全に別の意味になるのである。精神病理学の文献に、母親の不倫を偶然目撃してしまった女性の例がある。その女性はほとんど目がふさがってしまうほどの皮膚炎を起こしていた。既に述べたヒステリーの視覚障害と同様に、おそらくは「見てしまった」ことへの罪の意識の表現なのだろう。

ひとつの部位にまつわる幅広い意味を吟味するために、手の荒れを起こした数人の例を見てみよう。手の皮膚に症状が出るのは、手の使いみちを反映しているはずだ。私たちは絶えまなく手を使っている。手で怒りを表現し、愛撫や自慰にも手を使う。「手癖が悪い」のは、盗むことである。私たちは人生や仕事、それに人間関係を暗喩的に「取り扱う」が、それはあたかも手で物を扱うかのように、注意深く、上品に、ためらいがちにあるいは無器用に操ることである。処理しきれなければ「手いっぱい」、欲求が満たされないままなら「手持ちぶたさ」になる。

20代前半のエルザは、家族の結びつきが強いヨーロッパの家庭で育った。彼女はコンサート・バイオリニストになるのを熱望していた。しかし親族の古い価値観に従って、年老いた祖母の介護役として家にいる必要があった。どうにか彼女は音楽学校の学期途中で家に戻ったものの、両手のひどい湿疹のために学業をあきらめざるをえなくなった。

エルザの両手は、義務感と個人的な憧れとの間にはさまって締めつけられていた。もし学期を満了しようとすれば罪悪感にさいなまれ、満了しなければ陥ってしまった苦境に対する怒りを感じた。そのような自分の「受け入れられない」感覚を経験することを、彼女は自分に許すことができなかった。

成長と自立という自分自身の葛藤があるので、両親との価値感の対立はなおさら解決不能な問題だった。バイオリンを弾きたいが、祖母の世話をしなくてはならない。彼女の両手は、相反する欲求と要求とがぶつかりあう闘争の場と化したのである。

重役中の重役とも言うべきトムは、不振にあえぐ企業に雇われる問題解決と危機回避のエキスパートだった。しかし今度ばかりは、自分が沈みつつある船の上にいることは明らかであり、いつもの得意技が使える状況ではなかった。義理の息子はとくに厄介な思春期にさしかかっており、トムが抱える問題には家庭の悩みも混じっていた。

トムの手の荒れは謎めいていた。皮膚科の検査では、ごく普通のインクと紙にアレルギー反応を起こしていることが分かった。それを使わないようにしても、荒れは消えないばかりか悪化する一方だった。私には、彼の手はもっと深いレベルでの問題を示しているように見えた。仕事とプライベートの両方の失敗から生じた、彼の欲求不満である。うぬぼれを根こそぎにされたのを素直に受け止めず、何でも「うまく扱える」と思っていたこの男は、象徴的な方法で報いを受けていたのだ。

右の人さし指と左の中指だけという奇妙な湿疹に悩まされ、ジャネットは数年にわたって心理療法を受けていた。治療ではよくあるように、もともとは違う人に向いていた強い感情を、この女性は私に転移してきた。彼女は自分の父親には決して許してもらえなかった方法で私に近づいて、私の実生活に入りこもうとしていた。結婚指輪をする左の薬指と、引き金にかける右の人差し指の炎症は、かき立てられた彼女の情動、すなわち親密さへの願望と欲求不満への怒りが宿る場所を示しているように思われた。彼女の一部分は私との結婚を、また別の一部分は私を銃で撃ちたがっていたのだ。

隠れていた暗喩がいったん明らかになると、この3人の患者の皮膚の荒れはどれも順調に軽快した。

この患者たちのように、あなたの「なぜそこに?」への答えは、自分自身の体験と問題の中にのみ見い出されるだろう。しかし比喩的表現として広く認められているように、同じ境遇を経験することは、特定の部位が意味することの共通基盤となる。この章で示す身体に関する連想のリストは、あなた自身の洞察にとって替わるものではなく、ひらめきを助けるためのものである。探しものを見つけるための感情の地図として考えよう。

顔は最も人目につく部分である。自然に、あるいは秘めておこうとしても、感情がもっともはっきりと表れる。恥をかけば「面目を失い(lose face)」、プライドを守る時は「面子を保とう(save face)」とする。カインの烙印は罪人に焼き印をするもととなったが、それは額に押されたのである。

口は話したり、食べたり、キスをしたりして、感情を色濃く含む行為の中心になっている。敏感で表現力があり、性と深い関連のある器官である。しかし、口は人をだますためにも使われる。自分が本当には信じていない考えや気持ちには「リップ・サービス」で応じて、つくり笑いやしかめっ面を向けるのだ。

出入り口でもすき間でもあるから、口は自分と社会との国境地帯である。食べ物を摂り入れ、呼吸がそこを通る。その結果として、特に何かを受け取ったり与えたりする関係で、感情的な衝突が起こると象徴的な役割を果たすことになる。不当な圧力を受けて、自分が欲しい以上に何かを得てしまったら、それを「のどに無理やり押し込む」のだ。他の開口部、すなわち耳、目、性器、直腸もまた、開口部がもつ意味に関連した症状が頻繁に現れる場所である。

眼は涙を流したりものを見るための器官かと言えば、必ずしもそうではない。視覚には知覚と洞察に関する、ありふれた暗喩が含まれている。何かに「目がくらむ(lose sight of things)」と、重要なものとそうではないものの区別がつかなくなる。もしどん欲で野望に満ちて、あるはずの権利以上に受け取ろうとしているのなら、私たちは「目を大きくしている(big eyes)」ことになる。じっと深く凝視して、目で世界を吸いこむのだ。

頭部は考える場所なので、知性と混乱、賢さと狂気の象徴である。あまりにも知的なタイプの人は「頭でっかち(from the neck up)」で生きている。強情でかたくなな人は「石頭(headstrong)」だったり、「つむじ曲がり(pigheaded)」なのである。無鉄砲なのは「頭をつっこむ(head first)」であり、ひどい思い上がりやうぬぼれは「ふやけ頭(swelled head)」である。頭部に集中した皮膚症状は、自尊心に関する問題や、知性を受け入れたり保つことに伴う困難を示しているかもしれない。

髪はもっとも失われやすい部分である。何かを失う感覚はしばしば髪の毛によって表現される。聖書のサムソン(訳注:長髪を切られて怪力を失ったユダヤの士師)の物語では、髪が力の暗喩として描かれている。白髪は知恵を連想させると同時に、老化や衰えという厳しい意味も含む。短期間に髪が抜け落ちることは、たいへんな精神的苦痛を伴うものである。

胸部には心臓が納まっており、胸が張り裂けるような思いをした時には、実際にそこの皮膚が荒れるだろう。胸部は正真正銘の自分を連想させ、胸のつかえが取れることは告白や罪を表現する暗喩となり、胸を突き出すのは自信たっぷりの自己表明である。

乳房は養育と母性を連想させるのと同じくらい強く、性的な意味合いを秘めている。私たちの文化がもつ乳房への強迫観念は、乳房を魅力あるものの象徴に仕立てあげた。ふだんは隠されているので、見せてくれるように熱っぽく求められるのだ。

胸の下には腹部があり、より柔らかくて傷つきやすい。「白くて柔らかな急所」である。そこは胸と同じように、その人自身の心臓を暗喩するものになり得る。多くの文化でみぞおちに魂があると言われ、日本人にとって下腹は「気」と呼ばれる生命力の中心である。文字どおりの意味と比喩表現の両方で、何かを消化できない時には胃袋でむかつきが表現される。へそは象徴的に、母親とのつながりを生涯にわたって保ち続ける。

性器からは強い感情、激しい葛藤、ひどい混乱が連想される。愛したり愛されたりする感覚で未解決のものがあれば、性器の皮膚症状として表現されるかもしれない。性器はセクシャリティそれ自体を象徴し、その意味は自己主張や魅力、創造性にも反映される。私たちが力を十分に発揮できない時は、性器もわずらうだろう。私たちの多くは、依然として性器から連想されることに罪悪感をもっており、タブーの領域が心の片すみに残り続けている。

肛門周辺や臀部の皮膚のトラブルは、「尻の痛み(a pain in the ass=悩みの種)」と言われるように、いらだちを扱いかねていることを表現しうる。私たちの心には子ども時代のトイレのしつけで味わった不潔感が、自分でコントロールする感情に彩られた排泄物とともに、依然としてこの部分に感覚として残っている。 この部位の問題は、同性愛の恐れのような性的なアイデンティティにまつわる葛藤、あるいはあまりに苦痛で理解しがたいものに出会った時の衝撃と関連があるかもしれない(ある患者は肛門周辺にイボがあった。それは同性愛に対する嫌悪感と不安を象徴的に表わしており、ある部分で彼が持っていた同性愛への強い衝動から彼自身を守る役割を果していた)。

肛門から背中にかけての症状は、積極性と消極性の対立を示すかもしれない。自分たちの責任に「背を向ける」べきか、それとも自ら喜んで責務を果たすのか? 欲しいものを追い求めるのか、それとも「尻を下ろしたまま」なのか。働きかけをするかしないかのどっちつかずで、いつもの受身的な役割に腹を立てながらもそれを打ち破れない人は、背中に症状が現れるかもしれない。

私たちは足で攻撃的に蹴る。また足は移動したり、しっかり立つための器官でもある。大地に根を下ろすことも、旅を続けることも可能にする。定着と移動のどちらかが簡単にはできないような時、足に発疹が広がるかもしれない。私の患者のひとりは、動きまわるのが唯一の特徴であるような人生を送っていた。彼女は一度たりとも一定の場所に落ち着いたことがなく、事業でも人間関係でも休むことなく転々としていた。足にできた痛いイボは、彼女を静かにしっかり立てないようにすることで、まだ解決されていない文字通りの問題に焦点を当てていた。

足を踏みしめることには、断固としたイメージがある。そして下肢に現れる問題は、ものごとを決定するのが難しいと言うことを表わしているかもしれない。それは「下等な器官」であり、突き出ており、湿り気があって、臭うこともある。このような足の特徴は性器を象徴しており、セックスにまつわる葛藤と困難を表現しうる。

「なぜそこに?」と自問する時に頼りになるガイドとしては、自分自身の連想と想像、そして直感にまさるものはない。皮膚のトラブルで注目を浴びることになったその部分が象徴する意味は、何なのだろう? そこが病んだら、ほかの場所がそうなるのとでは何が違うのか? 私たちが日々使っている言葉や芸術、夢は暗喩と象徴の宝庫である。それらは皮膚のトラブルの一角を占めるに至った、「そこにできた理由」を知る手がかりを提供してくれることだろう。



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