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第13章

かゆみと掻きむしりの悪循環から抜け出す


――ある若い女性の手記から

 私は最近まで、「掻破」という言葉を聞いたことがありませんでした。しかし今では「肌が裂けるほど掻きむしる」という、かつての自分の症状をさす言葉だと知っています。それこそ私が毎晩やっていたことなのです。血が出るまで爪で引っ掻いていました。神経症的な掻破の98パーセントが、情緒的な問題によって起きると読んでショックでした。1957年から1971年までいろんな医師のところに連れて行かれましたが、そんな情報は聞いたこともなかったし、感情が絡む問題だと教えてくれる医師なんてひとりもいませんでした。両親は問題がないふりをしていれば、消えてなくなるとでも考えていたのでしょう。おそらくは、自分たちの娘にそんな問題がありそうだと認めるのを恥じていたのです。

 一番つらいのは夜でした。昼間のような気晴らしもなく、あるのは私とかゆみ、私と皮膚だけの世界でした。ひどい湿疹のある子どもは、毎晩の暗闇で自分と向き合っているうちに、すぐに気づきます。悪夢は他でもないこの身体であり、自分自身が怪物であるということに。これは自責の念を生み出すので、子どもの感情を破滅に追いやります。人はひどく辛い目に遭えば、自分がひどく悪いのに違いないと思うものです。「罰せられたのは、何をしたためだろうか?」と。両親がそのつど安心させてくれても、悪霊のようなかゆみの力でしぼんでいました。ふだんは、ひとりぼっちで苦闘していたのです。

 8歳の時に、私は奇術師のフーディーニに魅了されました。手錠や拘束服やチェーンにつながれて、どんな監禁状態でも抜け出してみせたから。私はと言えば夜の間に皮膚をずたずたに裂かないように、手錠や拘束服やチェーンや手袋に押し込められていました。毎晩、拘束から抜け出す方法を思い描いたものです。傷ついて血が出た手首を手錠から何とかうまく外して、勝ち誇ったように肌を掻き壊したものです。

 私はついに、集中力をもって掻かないことを身につけました。両手をお尻の下にねじ込んで、麻痺して動かないものだと思い込みました。掻いてしまえともがくにしろ、止めようとともがくにしろ、身体の動かし方を厳しくコントロールしようと懸命でした。3年の間、私は自分自身を獲物にする野獣でした。

 私は秘密主義の子どもで、常に自分の皮膚を恥じていました。自分を隠し、正常を装い、神秘的な部分を残してお高くとまるように努めて、空想の世界に生きていたのです。自分のアレルギーを説明するのは嫌いでした。ありとあらゆる嘘をつきました。もしほんとうのことが知れてしまったら、誰もそばに寄りつかないと信じていましたから。医師たちは奇跡のように治るとうたっていたし、両親は神様が奇跡を起こしてくれると言ってくれました。あまりにたくさんの落胆を重ねて、私はとても幼い頃から斜に構えるようになりました。

 ふり返って見れば、湿疹の性的な側面にも気がつきます。たいていの子どもよりもおおっぴらに、私は自分の身体に触れて、遊ぶことができました。初めての人はいつも私のむき出しの部分をじろじろ見たり、触ったりしていました。全身にオイルとローションを塗る必要があったし、とくに父親に塗ってもらうのは楽しみでした。父親の大きな筋肉質の手は、(男性に触れられる)練習にはうってつけでした。

 私にとって掻くことは、性的な快感に似ていました。身体に深く立てた爪を上下に動かして、絶頂感を得ていました。掻いたりつねったりするたびに、うめき声を上げたり鼻を鳴らしたりしていました。

 症状で得をしたことも、憶えています。誰もが私と皮膚とに関心を払うから。逆の意味で、特別な存在になれたのです。他の子たちが得られないような同情や好意がもらえたし、いろんな言い訳にも使えました。学校を休み、遅くまで寝て、怠け者でやる気なし。自分は個性的で特別なんだと感じ、空想の世界で独りで過ごして、現実の社会に直面するのを避けていました。

 私の境遇は辛いものでした。でも安全で慣れ親しんだ世界でもあり、それに依存してリスクを恐れる傾向が続きました。やりたくないことには、言い訳をいつも用意して。どんな規則でも私は例外扱いでした。

 11歳になるまで、押し寄せてくるかゆみ全てに対抗するには、厳しい警戒あるのみと信じていました。あの頃にリラックスした経験と言えば、狂乱状態で掻きむしり、へとへとになって脱力したことくらいしか思い出せません。でもその後で、私は意図的にリラックスすることを身につけました。

 それは不眠症を克服しようとする試みの産物でした。そのままにしておけば手が勝手に掻いてしまうし、掻いている間は眠れませんでした。他のことにかまけてふさいでおくために、両手を顔の前にあげて指先を一本ずつ合わせました。ゆっくりと軽く触れ合うのをながめながら、親指と親指、人差し指と人差し指と降りていって、終わると逆の順に戻りました。こんなふうに、自分を催眠にかけて眠りについたのです。

しばらくして、これはただ眠りやすくしてくれるだけではなく、掻きたい欲望を減らしてくれることに気づきました。掻くまいとしたわけではなくて、本当に掻きたくなかったのです。この新しい感覚には、大喜びでした。手の動きに対する警戒をゆるめてみましたが、それでも大丈夫でした。それから、このちょっとしたエクササイズをする時の、ゆっくりとした深い呼吸だけでも、十分にリラックスできることが分かりました。私は発作的に掻きくなってきた時にはいつでも、連鎖反応を断ち切るために目を閉じて深呼吸をしました。

 私は引き金から指を外すことを学びました。たとえば運動をしたり、汗を意識するようになった時には、広く大きく掻き始めたものです。私は自分の汗にもアレルギーを起こすと信じていたし、この理由で体育の時間を欠席するべきだとの医師の説明にも納得していました。

 そこで私は、もう一つの選択肢を作りました。汗をかき始めたら、深呼吸しながら自分にこう言ってリラックスします。「ちっともかゆくないわ。あなたの皮膚はきれいよ。汗をかいたって大丈夫。汗をかいても掻かなくていいの。ただリラックスして、汗がひくまで静かに座っていよう。そうしていれば、良くなるわ」と。リラックスと自分をなだめる言葉のおかげで、ただかゆくならないだけでなく、汗をかくたびに現れていた赤みや腫れ、蕁麻疹も出ないようになりました。

 かゆみも肌荒れも相手にしないで、皮膚が平穏に癒えるままにしておくことができました。ちょっと治った傷口のかさぶたをはいで、爪で引っかいて血を流し、さらに傷を深めることを何年間も続けた後で、ついに私は傷が治るのを見守る楽しみを身につけました。

 私は掻くのを狭くしておけるようになりました。たとえば身体の他の部分を放っておけるのであれば、足を掻いても良しとしました。そうしてどこも掻く所がなくなるまで、私はだんだんに許す範囲を小さくしていきました。そうでなければ最初に腕を掻いたら手首までにして、それから指一本だけに、という具合に。しばらくの間は足首まで範囲を狭くしましたが、そこからが長い戦いでした。けれども昨年以来、発疹も傷も痒みも出ていません。それで今は永遠に「遺跡」を封印するために、すね毛を生やしたままにしています。

 無実の身体をレイプし拷問を与えて来た両手は、以前は敵でした。憎んでもいました。リラックスできるようになってからは、両手と和解しました。身体の他の部分と同じように、両手も優しさと尊重をもって扱うようになりました。そして彼らを癒しのために用いるようになりました。「皮膚さん、あなたがほんとうに欲しいものはなあに?」と言いながら。自分自身を抱きしめるように、傷ついたかゆい場所をなでて、キスし、やさしく揺するのです。

 私は自分と話し合うことを学び、声に出して話しかけました。最初は掻くことから気をそらせるために、自分にお話を聞かせていました。その次には、自分が聞きたかったことを話すようになりました。母をまねて「愛しているわ」と言いました。そして少しも良くならないことをどれほど怖がっていたかを、自分の声で語りました。何度も声を交替させて言いたかったこと、聞きたかったことすべてが尽きるまで続けました。自分を抱きしめて優しくさすりながら、泣いたり、安心させてあげたりするのです。「心配しなくていいわ、私がついてるから」。そうやって、人生を変えてゆく自分自身のサポート・システムを作り上げるのです。

 私はどんな時にも最善をつくそうと自分に語るようになり、そうしていることを信じるようになりました。もし今は自分をコントロールできないにしても、次にうまくやれば良いのです。「今すぐに掻くのを止められる?」、「できるのなら、それにこしたことはない。できなかったら、それでもいいわ」、「あと5分掻いたら、止めることにしよう。でも次には全部を掻く必要はないはずよ」。そして自分が掻かなかった時には、自分をほめちぎりました。他の誰をも信じなくなってからというもの、賞賛は自分からもたらされる必要があると分かっていました。皮膚の一部を無傷に保っていることができる、そのことで私は自分を祝福しました。

 両親でも医師でもなく、自分自身を救い主と決めてからは、他の人が投げかける頭にくるような質問を怖れなくなりました。傷についての忠告、そして見当違いの奇跡の話。醜さを人に見られたり、必要な時に掻くことで人目を集めてしまうことを心配しなくなりました。やりたい放題の自分を恥じることもなく、質問には気軽に答えて、感染を怖がる人々には客観的な事実を淡々と述べました。

 他の人に不愉快であろうとなかろうと、私は自分のやり方で病気とつきあう権利があることを理解しました。世間から忌み嫌われる人や手に負えない子どものようにでなく、敬意をもって扱われる権利を主張しました。皮膚が美しいかどうかにかかわらず、公共の場に出て自信をつけました。しまいには誰も毛穴の隅々までじろじろ見てなどいなかったことに、気づきました。たとえじろじろ見ていたとしても彼らの勝手だし、人のためにきれいに見せる義務なんてありはしないのです。

 私は自分の感情を怖れないことも学びました。倒れるように巻き込まれるのではなく、平静さを保って、それとどうつき合ってゆくのか徐々に理解しました。パニックに圧倒されて数珠つなぎに掻いてしまう反応に飲み込まれずに、自分の最も深いところからの声に耳を傾けて、自分との関係を愛と尊敬とコミュニケーションに基づいて伸ばしてゆきました。私は生まれ変わったのです。

私のもっとも強烈な記憶は、夜ごとに寝ようとして泣いていた自分の姿です。母親がやって来て揺すりながら、安心させてくれたものでした。あなたを愛しているわ。明日になればきっと奇跡が起きて、すっかり良くなっているわ、と。私はそんな奇跡が起きますようにと祈りをささげ、長いこと待ち続けました。その時から、神さまを信じるのをやめてしまいました。

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 かゆみのおかげで子ども時代が歪められ、抑制されてしまったと言うこの若い女性の手記は、極端に聞こえるかもしれない。しかしかゆみと掻きむしりの悪循環(訳注:かゆいから掻く、掻いてかゆくなる)に陥ったことのある者なら誰でも、彼女の苦悶に思い当たるだろう。

 かゆみには多くの原因が考えられる。この女性はアトピー性皮膚炎、つまりは湿疹と診断されていた。かゆみは糖尿病、肝疾患、腎疾患といったある種の疾病に起因することもあれば、薬剤に対する反応としても起こる。虫に刺されても。湿疹や乾癬、蕁麻疹、またはすっかり健康そうに見える荒れた皮膚にも、かゆみはついてまわる。

 あなたのかゆみは疾病によるのか、 それとも心理的なものだろうか? 何年もかけて医師と果てしない探求をするのも良いが、その間あなたのかゆみはやむことがないだろう。だからできるだけ最善の医学的な検査と処置を受けることだ。しかし忘れてならないのは、結局のところあらゆるかゆみは心理的なものである、ということだ。どんな場合でも根本にある原因が何であれ、かゆみは病気ではなく体験なのだから。どれほど熱心な科学者が調べようとも、かゆみには物質的な実体はない。研究者たちは催眠の技法を用いることで、完全に麻酔をかけて無感覚にした健康な腕にすらかゆみを作り出せるほどだ。

 このことはかゆみを、決して「頭の中だけのもの」として片づけているのではない。痛みにもかなりこれと似たところがある。ひどい痛みの多くは、身体には何ひとつ目に見えるものが現れない。だからといって、痛みのすべてが想像の産物だと主張する者は誰もいない。とくに意味深いことはかゆみみの感覚が、痛みと同じ神経系で伝えられるということである。痛みもかゆみも物理的な原因があって、それが心理的な要因で衝撃が増幅されると考えられる。

 かゆみに苦しむほとんどの人が真っ先に思い浮かべるのは、シンプルな問いだ。「どうしたら追い払えるのだろうか?」。 痛みであればたいていは医学的な処置が有効だが、驚くべきは心理学的な技法による効果である。ある種の人には催眠、あるいは催眠に近いぺイン・コントロール法が、いっさいの薬なしで大きな手術をやりとげるだけの充分な効果を発揮する。かゆみを鎮めるのにも、同じパワーを使えるはずだ。

 どんなかゆみであれ、治療の第一歩は適切な医学的診断を受けることである。皮膚科医やアレルギーの専門家の診断によって、食事や生活環境の中にかゆみの「引き金」が見つかるかもしれない。そしてかゆみを抑えたり、なくしたりできる。違った衣服を着たり、洗剤を変えたり、特定の食べ物や化学製品を避けるように指示があるかもしれない。たとえば糖尿病などの別の病気が潜んでいたのなら、治療のために専門家を紹介してくれるだろう。

 それ以上に、医学的な処置は単純にかゆみそのものを減らすことを目的とする。 かゆみ止めの入浴剤と軟膏は、炎症を鎮めて肌をすべすべにする。アタラックスのような抗ヒスタミン剤は、生化学的な連鎖を断ち切ってかゆみを減らす。現在もっともよく用いられるのは、かゆみのもとの炎症を抑えるコーチゾンのようなステロイド剤である(弱いステロイド剤は小売店でも入手できる)。多くの人にとって、こういった型どおりの方法は十分ではない。

 本書にある心理学的な技法は、原因が何であろうとかゆみを和らげる。たとえそれが肝疾患のような、内臓病にともなうかゆみだとしてもである。実際のところ、内科的な原因がはっきり特定できるかゆみは、心理学的な介入にもっともよく反応する。というのも、「やってみる」ことへの心理的抵抗が少ないからだ。

 心理学的なアプローチと医学的なアプローチは、併用することで効果をあげる。例えばリラクセーションによってステロイド剤の使用を減らすことができるし、多くの人が感じている、ステロイド剤が生活で中心的な役割を占めているという依存の感覚を持たずにすむ。

 心理学的なかゆみのコントロールは、次の四つの部分からなる。(1)症状を通じて身体が訴えている医学的・心理的メッセージを理解してそれに応えるために、皮膚の暗号を解読する。(2)かゆみを悪化させる緊張をとくための、リラクセーション。(3)状況によって生じるストレスを和らげるように、生活の仕方を変える。(4)かゆみと掻きむしりの悪循環から抜け出す。

 むずむずするようなかゆみ(itching)は、第2章にあげた11項目の身体からのメッセージのうちいずれかの反映でありうる。「いつもうずくように願うか、思いこがれている」という辞書の定義は、たいてい的を射ている。「愛情と保護」を求めようとする課題に苦しんでいる時に、私はよくむずがゆさを覚える。「狂おしいほどのうずき(maddening itch)」は表面下の怒りを暗に示す、もうひとつの的確な言い回しだ。(身体が発する表現として) あなたの皮膚が、ひどい目に遭っているのだろうか? 満足していないが行動する準備が出来ていない時に、暗喩的に私たちはじれったさ(itching)を感じる。いろんな言い方で表されるむずがゆさが、身動きできない人たちを困らせている。

 かゆみと掻破を背後で支えているもともとの感情は、常に健全なものだ。掻いたり突ついたり、引きはがしたりする行為のどれかに、あるいは皮膚自体に目が向いているにしても、自分を救おうとする試みなのである。私たちはかゆみを減らすために掻く。その意図は誉れ高いが、手段はひどいものだ。同じことが、大方のニキビの人が突ついたりはがそうとすることにも言える。皮膚をきれいにしたい、と言うわけだ。その意図は素晴らしいが、その手段で望んだ結果が得られることはない。

 私たちは性的な欲求不満も、「むずむずする」と言う。かゆみがとりわけ性器と肛門周辺のものであれば、しばしば皮膚は愛を求める課題に取り組んでいるか、またはもっと複雑な性的な葛藤に関わっている。理屈はいたって明白である。  コンサルタントをしている35歳のティムは、強烈な股間のかゆみに悩まされていた。赤いリングのような炎症が肛門からペニスの先まで続いていた。ゆったりした下着と刺激の弱い洗濯洗剤、それにステロイド入りのクリームが役には立ったものの、医学的原因を見つけるに至った皮膚科医はおらず、症状を消し去る手だては何もなかった。

 皮膚の声に耳を傾けて、彼自身のタイムライン(第4章参照)を注意深く見続けるうち、ティムはついに症状に隠された意味につながる気づきを得た。勃起する感覚が萎えてくると、必ずかゆくなってしまうのだった。

 40歳のドナは四人のティーンネイジャーの母親であったが、何事もなく暮らしているように見えた。情け容赦のないかゆみが足、尻、腹、そして腕に、急激に現れたのだ。12年間にわたって皮膚科医の診察を受けて、軟膏やローション、入浴剤、錠剤などは時には役に立ったが、しかしこの問題が解消されたためしはなかった。彼女は欲求不満と怒りを感じ、自分自身と医師に失望し、そしてあいかわらず皮膚をはがしていた。治療を開始してすぐに、私たちは彼女の生活にあるイライラのもとを特定した。夫である。彼はよそよそしくて引っ込み思案なのに、性的な要求が強かった。そのような性質の組み合わせが、利用されているような感覚を彼女にもたらしたのだった。彼女は怒りと、相手を満足させられない無力感との間に挟まれていた。彼女は数回のセッションを経て、自分が直接感じることができなかった欲求不満を表現するために、いかに皮膚が注意信号を発し続けていたかに目を向け始めた。それが変化を求める、絶え間ないかゆみであり、うずきであったのだ。夫に対立してゆくことは承知の上で、さらに自分の欲求不満に直に向き合ってゆくにつれ、彼女のいらつくかゆみの感覚は皮膚から離れて、不安と怒りと性的興奮が合わさった感情へと移行していった。

 とは言えドナには、もっと即効的な援助も必要だった。彼女はリラックス法の練習を学んで、掻いている時間を減らした。彼女は理想の環境をめぐって想像をふくらませた(第8章参照)。思い描いたのは、ひんやりと穏やかなプールだった。それは効果があったけれども、さらなる援助が必要だった。掻きたい衝動に屈するたびに、それは雪崩となって広がった。掻きむしりは激しさを増し、彼女はせっかくの新境地が水の泡になるのではないかと怖れだした。そこでドナと私はさらに二つの技法を発展させて、ついに12年間の習慣をうち破るに至ったのだった。それをこれから述べてみよう。

(注意:以下の技法は初心者向けではなく、これまでの章で示した診断法と対処法を実践していないと、最大の効果を発揮しないだろう。症状の火に油を注いでいる、感情と生活の問題点を見直すことは依然として必要である。定期的に理想の環境を想像してくつろいで、癒す心境になることも必要だろう。)


かゆみのチェーンを切る

 かゆみは、チェーンのようなものだ。どれかひとつの輪を揺すれば、ほかの輪もみんな鳴り出す。手首を掻いたなら、かゆみの滝がすぐさま腕をつたって肩から胸へと流れ込んでくる。これが白か黒かの仕組みを作り上げてしまう。完璧なコントロールか、もしくは後戻りできないほどかゆみにどっぷり浸かってしまうかのどちらかだ。あなたにはかゆみを感じるか、少しだけ掻いてふり出しに戻らないでいるかの、選択の自由が必要である。

1.通常の順序はこうである。リラックスして癒す心境になり、理想の環境を想像してその落ち着いた感覚を楽しもう。

2.一定の長さのチェーンをイメージして、ゆったりと注意を向けよう。しかしこのチェーンの輪は、それぞれとなり合う輪とはつながらずに離れている。どんなに揺すってみたところで、他の輪を動かすことはできない。

 このイメージはいったんかゆみを感じたり掻いたりすると、それが全体に広がってしまうのではないかという心身両面での予期を追い払うのに役立つ。

 このイメージで何かを成しとげたり、押し進めたりしないことだ。一連の練習をするたびに、植物の種をまくつもりでいよう。ほんの一瞬であれ、つながっていないチェーンのイメージを心の中で見るという方法で、一日に何度でも自分がまいた種に「水」をやることができる。頭の中で疑ったり怖がったりして独り言をしているエネルギーのいくらかを、チェーンのイメージという種に肥料を与えることに注ごう。

 このイメージを、いろんなやり方で役立てることができる。ひざの横のかゆみを、ひざ頭とひざ裏と、それに全身のかゆみから切り離そう。少しばかりひざの横を掻いても、たいした問題はない。他のすべてのかゆみや掻くこととは、すっかり完全に分離しているのだから。

 今日のかゆみや掻きむしりを、あなたの過去すべてから切り離そう。どのかゆみも、かゆみと掻きむしりの悪循環について一度も聞いたことがない人が一時的に感じるかゆみ以上のものではないと、想像しよう。今日のかゆみから、症状が始まった人生の困難な時期を切り離そう。これまでの歴史と現在を分けておこう。

 掻きたいという衝動を、実際の行動から切り離そう。衝動はただの衝動のままにしておこう。もしも「ああそう、またいつもの衝動だね、はいはい」と客観的にながめられたなら、あなたはその衝動をどんな行動や感情からも分離したことになる。

 皮膚のかゆい部分を、それ以外の身体の部分から切り離そう。かゆい部分が、部屋の端から端にただよっているのを想像しよう。それはあなたに、何もしないだろう。

 自分の身体の外へ踏み出そう。かゆみと闘っている人を、上から眺めてみよう。その人がまったく自分と同じに見えるかどうか、観察しよう。彼または彼女の幸運を祈ってあげよう。そうして、どこか他の所に移動しよう。

 なによりも重要なこと、それはあなたの皮膚を、背負わされている役割から開放することである。憧れを抱いたり、怒りを表現したり、性的な感情を感じたりすることは、脳と心にまかせよう。皮膚は皮膚のままで、いさせてあげよう。

 ここらへんで、読むのを止めてみよう。これより先の項目に進む前の少なくとも二、三日は、このチェーンを切る方法から得られる恩恵を受けてもらいたい。


掻く手から鎮める手へ

 あなたは、意志の力で掻くのを止めようとしてきたのではないだろうか? それは全くうまくいかないことだろう。その間かゆみは強まるばかりで、助けを求めて呼び続ける。ついにかゆみを取り除くために、ほとんど自動的に手がそこに届くのだ。意志よりも手の方が速いのである。

 どうして、掻くのを止めるように自分に言い聞かせられないのだろうか? とても簡単なことだ。あなたは一度も、掻き始めろとは言ってないからだ。ことを動かしているのは、自覚できる意志の力ではない。

 だとすれば、支配しているのは誰だろう? 意識下の心理でも、無意識下の心理でもない。自分で掻けと命じてはいないが、掻いているのに気づかないわけでもないのだ。掻破の司令塔は、私たちが本書を通じて探究してきた、心の中の癒す力と直接的につながっている。とは言えもう十分にご存知とは思うが、この内なる癒す力を使おうとするのであれば、あなたはそこに通じる言語を使って話さなければならない。無理強いしたり操作したり、せがんだりはできない。巧妙かつ、したたかになる必要がある。

 たとえば、一頭のカバを考えないことにしよう。さあ、もっと考えないように。意志の力で自分自身を押し倒そうとしても、効果がないものだ。では次に思い浮かべたカバを、ゾウのイメージに変えてみよう。これなら、楽にできないだろうか?

 自分の掻く手を押さえ込もうとすれば苦闘になるが、別なイメージに変換することはできる。厄介なカバを、忠実で強い味方のゾウに変えればいい。

 掻こうとする手がまさに皮膚に届くその瞬間、その手はかゆみを鎮めるために思い描いた理想的な環境からの使者に変えられるのだ。キャッチボールと同じように、一度できるようになれば、あなたはこの姿変えをほとんど自動的にやれるようになる。あなたがそうしなくても、手が自ずとそうしてくれる。かゆみをコントロールするのにステロイドを使うのと同じように、この手法を使うと良い。いったんかゆみと掻きむしりの悪循環を断ち切れば、皮膚が自ら治癒してゆくのが分かるだろう。

 頭で考えなくても楽にボールをキャッチできるまでに、おそらく数年かかるだろう。しかし「掻く手」を「癒す手」に変える技は、癒す心境をもとにして行う、日々の練習で身につけることができる。

・自分なりに工夫した手法(訳注:呼吸法や自己暗示など)でリラックスして、癒す心境になっていこう。

・あなたにとって理想的な環境を想像して、味わおう。

・かゆみのチェーンを、切り離そう。

 自分の手を、どんな感じがしている時でも肌を癒して鎮めてくれる、深い水槽であると想像しよう。手が限界いっぱいまで満ちている状態になったら、時々かゆくなる部分に動かそう。かゆみを鎮める手を、ただ軽く皮膚に添えてみよう。こすったり、押したりしなくていい。指の先から鎮める感覚が流れ出るのを想像して、かゆみの居所がすっかり無くなるまで、そこに手を置き続けよう。それぞれのかゆい部分に、充分な手当てをしよう。もしあなたの手が補水を必要としたら、一時皮膚から手を離して癒しの感覚をまた一杯にすることもできる。必要とされるだけ、この方法を繰り返せば良い。

 掻く手が自動的に鎮める手になるという考えに、焦点を絞ろう。攻撃目標に到達するまでの飛行の途中で、あなたの手は癒しの道具となるだろう。

少なくとも毎日一回は、この手順をたどること。できれば2回が望ましい。最終的には努力せずに使える精神的な魔法ではあるが、習得するまでには意欲が失せる期間があるので、そのつもりでいることだ。使えるようになった時、つまりかゆみに手が伸びても自動的に触れてなだめるようになった時には、あなたは自分のことを超人的な意思で「習慣を変えた人」よりは、驚嘆した観衆のように感じることだろう。

 あなたが花を励まし続ければ成長を早めることもできるが、それ以上の勢いでこの技法をものにすることは決してできない。それぞれの技法の種を巻き、リラクセーションと反復練習で養分を与えよう。(練習を自分へのご褒美ではなく仕事のように感じ始めたら、一日休むことだ)。身につける過程にはずみをつけるには、1秒の何分の一かの時間で良いから、日に何度でも「チェーンを切る」「掻く手から鎮める手へ」と頭に思い浮かべると良い。

 夜中のかゆみは、特に耐えがたい苦しみである。心と身体は休みたくてどうしようもないのに、心地よい眠りははるか彼方の思い出になっていく。なぜ夜に掻くことが、ここまで困ったことになるのだろう? おそらくは昼間のような気晴らしがないためと思われる。夜になれば私たちはありのままに戻り、願いと恐れ、ベッドを共にするパートナー、痛みとかゆみが迫ってくるのだ。

 意識がすっかり眠っている間ですら、あなたは夜中じゅう掻き続けた経験があるだろう。それと同じように、今度は「鎮める手」の効果が続くだろう。かつては掻く手に起こされたものだったが、鎮める手があなたの眠りと夢を守ってくれるだろう。なぜならあなたはたった一人の観客なのだし、眠っていようが起きていようがこの変化は続くからだ。

 ほとんどの皮膚のトラブルにおいて、かゆみほど本人の関わりが明白なものはない。あなたはこの問題の原動力であるのだから、解決にも参加するべきである。こういった技法には正真正銘の手品が含まれているが、たとえ名人級の手品師であっても練習は欠かせない。練習にはエネルギーを必要とするが、引っ掻くことに費やしていたエネルギーに比べれば、はるかに少ないものである。


他の新しい精神力動的・行動主義的アプローチ

 理論と実践を二大学派に支配されてきたのが、心理学の歴史である。しばしば片方はもう片方を忘れており、時にはいがみ合う、そんなことの繰り返しであった。それぞれに独自の用語や出版物、学会、そして治療法があるのだ。

 精神力動的なアプローチでは感情、思考、対人関係、および生活史が果たす役割を探究する。心理療法ではこれらを手がかりにして、葛藤や抑制、その他の人生の問題の解決をはかる。行動主義者たちは観察可能な行動に注目して、習慣をコントロールする技法を発展させた。(私は助けを求めて訪ね回る人々が不足していたせいで、深い溝ができたとは思わない。人間らしい苦悩が、需要と供給の原則を尊重したためしはない。)

 もしあなたが深刻な皮膚病と闘っているなら、専門家同士の政治問題などどうでも良いことである。それより今すぐに、可能なかぎりのケアが必要だろう。幸いなことに現在は、この二つのアプローチの橋わたしが着々と進んでいる。両派ともリラクセーションと催眠イメージ法を採用している。またそれ以上に開業している専門家たちは、助けになり得るものを無視する愚かさを認識し始めている。

 掻くことは、行動の問題である。かゆみと掻きむしりの悪循環は、情緒の問題点「が」引き金でもあるし、情緒の問題点「の」引き金でもある。まさにそこで問題が交錯しているのだ。これから精神力動的なアプローチと行動療法を組み合わせた、三つの新しい治療法について述べる。

新しい治療法

 スウェーデンの臨床心理士たちは、過去3年以上にわたってアトピー性皮膚炎に罹患していた成人17名を、二つのグループに分けた。実験群では常用のクリームに加えて、心理学的な技法を用いた。一ヵ月後にはクリームだけの対照群に比べて掻かなくなり、皮膚の状態もより改善された。

 それはどんな治療だったのだろう? 彼らの心理学的な技法は古典的な研究に基づいており、あなたもその詳細を調べることができる。治療が始まる前、両グループの患者たちには、掻破行動のエピソードを記録するために、ゴルフ用のカウンターが与えられた。彼らは部分的か全身かにかかわらず、最も強く掻きたい衝動を起こすのはどんな状況かを見極めて、その衝動の強さを測定するように求められた。

 心理療法を受けたグループは、どのように、いつ、どこで、掻こうとして自分の手を動かし始めていたのかをいっそう自覚するようになった。より頻繁に、あるいはより激しく掻いたのは、どんな状況に置かれた時なのかを実地に研究した。

 この治療法の核心は、掻破行動と両立できない行動のレパートリーを作ることにある。それは抑え切れないように思える、掻破衝動に対する新兵器である。彼らは初めの1分間はかゆい部分の上に手をじっと動かさずに置いて、次には太ももに動かすか、何か物をつかむように言われた。しっかりと自信をもってこのやり方ができるようになった彼らは、かゆい部分にさわる前に、手を物にもっていくか太ももの上に置くことができた。

 この技法をマスターした彼らは、ハイリスクな(訳注:掻いてしまいそうな)状況のイメージを思い描きながらもう一度練習した。もし患者が掻き始めたら、治療者は優しく合図を送って彼らに力を貸した。ではもうひとつの、二つのアプローチを組み合わせた治療法を見てみよう。

 二人のコブレンツァー博士、キャロラインとピーターはよく息の合った皮膚科医である。精神科医で分析家でもあるキャロラインは、この分野で最も信頼できる文献「心身皮膚疾患」の著者でもある。彼らは精神力動学派から出発したが、行動療法の可能性にも着目していた。1歳半から8歳までの、8名の慢性アトピー性皮膚炎の患者についての報告は特に興味深い。患者たちがそれまでに行ってきたさまざまな処置はうまく行かず、悲惨な結果に終わっていた。彼らは泣き虫で、怒りんぼで、しがみついてきて、要求がましいと描写されている。(冒頭の手記の女性のように)子どもと親の双方が日夜の絶えまない掻破の奴隷にされていることが、明確に容赦なく記述されている。それでも治療後1年から4年にわたって実施した追跡調査の報告を、二人のコブレンツァー博士はこう締めくくっている。「幼児期のアトピー性皮膚炎は、治療を受けるとすぐに予想される良い反応を示す。難治例となるパーセンテージはきわめて低い」。

 何が効いたのか? どうやって子どもたちの掻きむしりをストップさせたのか? 彼らの治療には、三つの成分が含まれている。週ごとの母子の心理療法と、具体的な行動への指示とを合わせた「伝統的で強力な皮膚科治療 」がそれである。

 心理療法では子どもに向けられた両親の感情と、親子関係の特性に焦点があてられた。問題の火に油を注いでいた難物の親子関係について、それぞれの母子は分かち合った。母親たち(と何人かの父親)は、子どもへの怒りを無意識的に償おうとするあまり、心配するばかりで、限界を設定して適度な要求をさせることができなかった。こうなると家族は、自分たちだけではどうにもできない拘束状態に陥ってしまう。心理療法によってそこから抜け出す道が開かれた。

――親子が感じている困難を私たちが認めて共感的に理解することで、彼らは愛憎相半ばする感情の「受け容れ難い」否定的な側面を、徐々に意識化できるようになっていった。彼らの人生経験や現在の境遇の文脈に挿入すると、これらの否定的な感情は了解できる、許されるものとなった。この洞察によって両親は、こんなに子どもを赤ちゃん扱いし、甘やかして、強く励ます必要があるのかどうか、より現実に則して見積もることができるようになった。

 それが素晴らしい援助になったであろうと信じるのには、やぶさかではない。しかし彼らは、いったいどうやって子どもたちに掻くのを止めさせたのだろうか? 子どもたちは掻く許しを得るために、両親を激しく駆り立てたり、なだめすかしているのだ。母性的な関わりを望めば与えられる正の強化がひとたび否定されると、掻破を放棄することができたのである。夜中に掻きこわしている時にも、その結果として家族の騒動がすさまじくなった時にも、子どもは自分のベッドに戻るように求められた。不安がかゆみと掻破の両方を強めるので、子どもに有益なのはより適切で首尾一貫しており、自分と折り合いのついている母親との、より良い関係なのだ。

 実質的にこれと同じパターンを、大人どうしの関係にも見てとることができる。彼らはすぐに過剰防衛をして、辛辣になり、審判を下してしまう。しばしば配偶者はいともたやすく、辛辣になったり過保護になったりの両親の役割にはまってしまう。両親こそが「掻くな」と「掻きたい」の、際限のないダンスのパートナーであったのだ。これはどんな年齢の「子どもたち」にもあてはまる。

  力動的なアプローチと行動療法の統合について詳しくまとめられた、グループ療法を見てみよう。

 カリフォルニア大学サンフランシスコ校でコールとその同僚は、医療によってこれといった改善がみられなかった、重症で慢性の成人アトピー性皮膚炎患者を10人集めた。全員がクリームを使い続けたが、ステロイドを全身に塗るのは避けていた。最初の12週間に、4人の皮膚科研修医が個々の皮膚の状態を評価した。これがベースラインとなった。そして研修医が改善を評価する12週の治療期間と1ヶ月のフォローアップ期間に、全員が心理学的な技法を学んだ。

 治療内容には、多くの要素がまとめられていた。リラクセーションと催眠は重要な手立てだった。週ごとのグループはリラクセーションと催眠でしめくくられ、参加者は帰宅してからも自分で練習する時間を作るよう求められていた。それぞれの患者は掻いた時間と頻度をカウンターで記録する方法を学び、日誌をつけた。さらには掻破の引き金となるような身体の感覚、思考、感情も観察の対象となった。掻くことで得られる快感を評価することも、重要な要素として追加された。

 その次に来るのが皮膚を傷つけたり、かゆみと掻きむしりの悪循環の口火を切らないことで、症状を緩和するトーレーニングである。こすったり、平手打ちしたり、保冷剤で冷やすことが勧められた。予想される悪化しやすい時期には、前もってリラクセーションとイメージ療法を行うことになった。

 この治療に慣れて巧みになったら、彼らはさらに発作的な掻破の引き金になる感情(不安や無力感、怒りや憤りなどのような)にもっと焦点を当てるように、強く促された。また二次的な疾病利得(訳注:症状によって、周囲から物質的、情緒的な利益を得ること)や、しみついた無力感のために落とし穴にはまることを、直視するように支持された。それぞれの参加者は、掻かない自分に報酬を与える仕組みを作り上げた。

 参加者たちが個人的な体験を分かち合い、他者の努力を支えあうにつれて、グループの凝集性はどんどん高まっていった。かゆみとその他の不安要素は、厄介なかゆみと掻きむしりの悪循環の始まりと言うよりは、新しい対処能力を使うように思い起こさせる合図になった。グループでは皮膚症状の改善がみられ、掻破とステロイド外用剤の使用量が減少した。

 これらは決して奇跡の治癒ではなく、努力のすえに獲得された、びくともしない結果であることを特筆しておこう。

 三つの治療法(訳注:スウェーデン、コブレンツァー、カリフォルニア大学サンフランシスコ校)のそれぞれで、どれが有効要素だったのかを正確に見極めるのは困難である。何が役に立ったのか? 私の見方はこうだ。

 掻破が主な問題であるなら、どんなに薬や支援や洞察を得ても、ただそれだけでは効果がない。掻きたい衝動にかられて熱くなった瞬間に、掻く以外の「何か」をする必要がある。これは掻いてる人だけではなく、親や配偶者にもあてはまる。

 誠実で思いやりのある人との関係は、症状を癒す。そのために鍵となるのは、グループのメンバーが心を開いて人を支える力を伸ばしてゆくことだ。治療者が枠組みを明確にしてグループを運営すると、親たちは受け容れられないと教わってきた感情を表現することができた。それによって親たちは、しっかりした枠組みと支援を子どもに与えることができるようになった。

 行動や感情、あるいは性格であっても、取り除く前には我がものとして所有して、噛みしめなくてはならない。患者たちはそれぞれ、掻破の「鑑定士」になる必要があった。彼らはかゆみと掻きむしりの悪循環をあおるような場面、人間関係、思考、感情そして満足感について真剣に学んだ。

 症状は「悪者」ではない。ありのままの欲求を満たそうという、賞賛に値する力強い試みである。やり方はひどいが、完全に潔白なのだ。鎮めるためのより良い技法を見つけて、何であろうと皮膚が示す注目への要求や異議申し立てに応えるなら、症状はやがて過去のものとなるだろう。



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